自然死

 今日は追加購入した玄米の配達があるのだけど、朝一本目のタバコを吸っているときこんな空想が勝手に湧いた。
『ちょうど配達の時間にピンポン鳴ってドアを開けたら配達ではなくスーツ姿の若い男が立っていて、そいつは不動産営業で、撃退するのに手間取っているところへ待っていた配達がやってくる。配達の人は重い玄米を持っている。配達を先に済ますべきところだがしつこい営業野郎が譲ろうとしない。腹を立てた配達の人が営業野郎に荷物を投げつける。営業野郎は荷物の下敷きになって意識を失う。それをほっといて俺は受領印を押して配達の人は立ち去る。荷物を部屋に運び入れるが、ドア前に営業野郎が倒れている。通報しないと俺がなんらかの罪に問われてしまうので仕方なく警察を呼ぶ。やってきた警官に事情を説明するが、このままでは配達の人が暴行の罪に問われてしまうことになり、それは理不尽だと思った。営業野郎が先に暴力を振るっていれば配達の人は正当防衛だと思い、口論になり営業野郎が先に殴ったということにシナリオが変わる。配達の人はなんら悪くない、悪いのはこいつのほうです、こいつが先に手を出しました、俺が証言しますと警官に話す。それでも配達の人は過剰防衛の罪に問われるかもしれない。かわいそうでならない。』

 そんな事態を招きかねないアポなし訪問はやはり犯罪だ。現行法に照らしても不法侵入、不退去罪。
 正当防衛というのはすんなり納得できる概念だけど、過剰防衛というのはまったく納得いかない。身の危険を感じて必死で抵抗するときに手加減などできるか。
 そんな空想から一日が始まった。
 今日もごみを出し忘れた。少し溜まってきてしまった。

 習慣的にヤフーニュースを見たがほとんどがコロナ。実態は厳しく隠蔽されているので報道を見てもあまり意味がない。
 コロナを恐れすぎだと感じる。治療薬がないから警戒してるんだろうけど、どうも死病というよりは単に肺炎を引き起こしてるだけのように思える。感染者数も死者数も隠されてる(わざと把握してない)からわからないけど、感染しても回復してる人もいる。主に老齢で体力のない人が死んでる。日本の数字はまったくあてにならないけど、世界的に見て感染者数のわりに死者数は少ないように感じられる。
 俺はできるだけの注意はするけど、感染したらしょうがないと思ってる。感染が疑われても検査はしてもらえないから、カゼのように内科受診するしかない。肺炎になっても、検査しないのだから通常の肺炎として治療を受けるだけ。それで治りそうな気もするし、最悪の場合死ぬだけだ。

 死を恐れすぎなんだな。皆必ず死ぬのに、死から目を背けて現実逃避している。だから少しでも危険があると狂ったように大騒ぎする。日ごろから死について考えていれば、今回の疫病は報じられているほど危険には見えない。とくに高齢者なんか、あと何年か何十年か長く生きたところで何になる。いい年してまだ死を恐れるか。すこしは頭を使え。

 俺が死を意識し始めたのは、四歳のときに祖父が死んだころかな。家族が嫌いだったから家を出たかったけど、各種児童救済機関があることなど知らなかったから、家出したら死ぬんだなと思ってた。
 実際には現代人はなかなか死なない。
 六十、七十、八十まで生きてなお死を恐れるということは、真剣に生きてこなかったということだと思う。真剣に生きていれば誰でも死を望むようなことがいくらでもあるのではないか。生きてることが奇跡だと思っておいたほうがいい。

 年間数万人(それも公表数。実際はもっと多いはず)の若者が自殺する国で、高齢者がコロナに怯えているさまは滑稽ですらある。
 老害という言葉で高齢者をひとくくりにしてしまうのはいささか乱暴ではあるけど、実際に大勢の高齢者が害をなしているので老害と言われても仕方ないだろう。老害ではない高齢者は、自分は違うと思うだけだろう。それどころか同年代として恥ずかしい、若者に対して申し訳ないという気持ちを抱いてもおかしくない。老害と言われて腹を立てる奴は高確率で老害だと思う。

 近年、高齢者の傍若無人ぶりを見ていると、日本人から地獄極楽信仰を奪ってしまったのは間違いだったように思える。日本を破壊するための謀略ならば見事に成功したと言える。
 俺の祖母は、実際には国粋主義者レイシストで無知蒙昧で猫嫌いのとんでもない奴だったけど、地獄極楽を信じていたので、毎朝仏壇に向かって念仏を唱えるなどして、自分なりに善良であろうと努力はしていた。きっと極楽に行けると信じて死んだのだろう。
 地獄行きの恐怖が高齢者のモラルをかろうじて保っていたように思う。それがなくなり、死ねばそれまでと思うようになった途端、自分さえよければいい、やったもん勝ちという態度になった。

 そんな見方だし、自分の祖母が大嫌いだったし、情報でも実体験でも高齢者の極悪非道ぶりが目立つし、人数が多すぎて大問題だし、この際大勢死んでくれないかなと思ってしまう。もちろん高齢者を一律に老害と見なすのは不正確だけど、感情的には減ってもらいたいとしか思えない。

 今日は3月11日。俺はすっかり忘れていたけど、震災の日だとツイッターを見て気づかされた。あの時は地震津波で数万人が死んだが、俺のような人間は素直に心を痛めることができない。人間というものについてよく考えると、自然災害で死ぬのは当然の報いのような気がしてしまう。自然のやることは気長で大まかなので殺す人間を選別してはくれないから、当然の報いは言い過ぎだとしても、自然の摂理だとは言える。どんな災害も疫病も、主に高齢者が多く犠牲になる。それは自然なことだ。

 あらゆる問題の根底に人口過剰があることを早く直視してもらいたいものだが、実際には少子化が問題だとかぬかしてなぜ子供を産まないのかと若い世代を責める。人口に多くの比率を占める高齢者の大部分が老害だとすれば、早く死んでほしいというのが俺の偽らざる心境だ。
 老人が多くても、邪魔しないでくれればそれでいいのに。老人の多くは若者を嫌っているが、若者の多くはお年寄りを敬う心を持っている。そのアンバランスもやるせない。

 俺も六十代七十代まで生きていたら老害扱いされるようになるんだろうな。

mi