反社会人

 今日は夜中に起きてしまい、当然のようにツイートし始めたのだけど、その大半を削除した。まず冒頭に、削除したツイートを列挙する。

・神奈川県警が声掛けか。余計なお世話だな。今のところ夜の繁華街を対象にしてるようだから関わることないと思うけど、そのうち監視されるようになりかねない。
・まだ自粛要請だけど、禁止されるのも時間の問題かなぁ。
・通勤止めずに遊びは自粛か…
・狂い出すんじゃないかな。
・もう始まってるか。
ゴールデンウィークに遊びに行けなくなる可能性あるな…
・「遊ぶ」とか言うだけで怒られるようになるかな。
・兄はスマホしか持ってないし俺はガラケーだからメールしかできない。
・国にとって感染抑止は建前なんじゃないだろうか。外出禁止でなく自粛要請なのは、全体主義に持っていこうという狙いがあるのではないかと思えてしまう。
・俺が自粛に逆らいたくなるのはそういう勘繰りがあるからかな。
・まじめに自粛するなら買い物と通院しか出られない。
・感染のリスクをおかしてでも遊びに行きたい俺は非国民か。それどころか人類の敵かもな。だが俺の視点からすれば、これまでの人生をとおして、人間社会が俺に対して敵対してきたのだ。少数派の感覚はだいたいこれじゃないだろうか。
・感情的にはおさまらないものがあるが、身を守るために協力しておかないとまずいことになりそうだ。
・少数派の中でも少数派か。虐げられてきた者の感覚は、表には出さないほうがよさそうだ。一生虐げられてなきゃならないのか…
・社会に対する恨みみたいなのがまだ消えてないんだな。これを捨ててしまわないと「反社会人」として……
・やっぱりSNS向いてないかもな。自分の首を絞めるようなこと言ってしまう。
・また消しとくか…

 これらをツイートするにつれてだんだん不安になった。そして不安の源を突き止めようとして気づいた。自分の中には社会人としての責任感がないのだと。自分がコロナで死ぬ可能性は重々承知してるけど、人にうつす可能性についてはよく考えてなかった。それもセットで自粛に繋がるわけだが、自粛要請であって禁止命令ではないのになぜ自ら進んで服従するのだろうと不思議に思っていた。そしてそれを大っぴらに宣言してしまっていたことの危険性に思い至った。義憤にかられる人は必ずいる。

 自分の身勝手さに気づいた。自分が納得すれば、人間社会の未来などどうでもいいのだ。コロナ終息を願うのも、自分と仲間のためでしかなく、赤の他人に関してはむしろ人口が減ってほしいなどと思っている。

 人間社会に対する怨念だ。これを捨てなければ、心から協力することはできない。

 国や自治体が要請にとどめて、命令しないのは、単なる責任回避ではなく、そうしておけば日本人社会は自ずと全体主義の相互監視社会になる、それが狙いではないのか。そして密告が推奨されるようになり、俺のような「反社会人」は密告され何らかの刑罰を受けることになる。あるいは私刑に遭うかもしれない。
 統合失調症だから被害妄想なのかもしれないが、そう思えてならない。

 俺は反社会的でサイコパス的だ。本音でツイートしていればそれが表に出てしまう。

 そんないきさつで、ツイートが非常にやりにくくなった。

 うまくまとめられず、読みにくくわかりにくいものになってしまった。申し訳ない。なんとなく感じ取ってほしい。
 今後の人生を左右する重大テーマなので、今後また同じようなことを書くかもしれない。

mi

日記2020年4月1日

 昨夜は21時ごろ寝たのに、今朝は9時ごろ目覚めた。何度も何度も昼寝したうえによく12時間も寝たな。起きたくなかったのかな。
 今日は憎むべきエイプリルフールなのでツイッターは一切やらないと決めている。
 遅くなってしまったので朝食をうどんにして今すぐ食おうかとも思ったのだが、コーヒーを飲まないと何もできないようだし、やはり玄米を炊くことにした。玄米をまず炊き始めてからコーヒーを淹れ、少し躊躇してからPCを起動。ツイッターやらなくてもどうせたくさんの駄文を書くし、ネットもツイッターだけではない。CGもつくるし、娯楽も大部分PCに詰まっているのだ。スマホ依存を馬鹿にしているが自分はPC依存だ。他人のことをとやかく言えた身ではないが、それでも言う。スマホ依存は危険だ。意見を発表しているのではない。警鐘を鳴らしているのだ。批判は受け付けない。
 アメリカへ行ったのは一ヶ月弱だったろうか。早くも記憶が怪しいが、その間だけスマホを使っていたので、スマホがいかに便利かも知っているが、それがいかにストレスであるかも同時に体感した。端的に言えばスマホに振り回される。利便性と害悪が一体になっていて切り離せないのだ。
 利便性についても俺はそんなに良いとは思えなかった。最寄りのディスペンサリーをマップで調べると、半自動的に経路と交通手段がわかり、さらにはバスの時刻と所要時間までわかった。それが「便利で快適!」とは思えないのだ。やりすぎ感がある。「次のバスはこの時間だ。さあ急げ!」と言われているような、常に急かされているような感じがした。だから俺は経路と手段を確認するにとどめて、時間は気にしないことにした。どのバスに乗って何個目の停留所で降りればよいか、それだけわかれば俺にとっては十分だった。そしてそれはPCでもできることなのだ。目的地までの地図を見て、路線検索をして、印刷するなりメモをとるなりすれば済むことだ。
 コミュニケーションツールとしての機能については、評価できるほど使用する機会がなかった。連絡をとる相手が四人しかいなかったし、Eメールとショートメッセージぐらいしか使わなかったから。ただ、常に携帯していることが前提になっているから、コミュニケーションもちょっと忙しすぎるなとは思った。
 俺にとっては相手がいつ読むかわからないEメールと、どうしても必要な時だけ電話を使えば十分だ。だからPCとガラケーでよいのだ。
 これからは5Gとやらが主流になるそうだが、まったくもって迷惑な話だ。俺のガラケーは3Gなのだが、キャリアは2022年3月末までで3Gサービスを終了すると言っている。新しい端末の購入と新しい(もちろんより高い)料金プランへの変更を強要される。それでもスマホよりは安い。俺はガラケーがなくならない限りスマホにしないかもしれない。またはコストが逆転するか。

 どうでもいいことだが、「覚」と「憶」を意味の違いで使い分けている人は少ないような気がする。似たようなものと思われていそうだが、大きな違いがある。どちらも義務教育で習う簡単な漢字であり、PCであれスマホであれ書く面倒もない。だが圧倒的に「覚」の字が多く使われている。間違いではないことになっているが、俺は強い違和感を覚える。
 記憶の「憶」と知覚の「覚」だ。憶えるのも使い分けるのも簡単だと思うけどな。

 朝食が11時過ぎになってしまった。
 飯食って後片付けをしたらもう12時を過ぎた。昼寝するかな。

 1時間ぐらい寝た。

 俺は政治にまつわることはできるだけ言わないようにしてる。言いたいことはいくらでもあるのだが、ツイッターで政治を語る奴は気持ち悪くて嫌いだし、俺の考えを公の場で放言したらそれだけで逮捕されてしまいそうだから。おとなしくしているが考えてることは過激だ。身を守るためにネット上では言えない。戦国時代のようなやり方をすればいい、と言えばだいたい想像つくかな。具体的なことは大っぴらには言えない。
 日本は平和だ。悪い意味で。

 アメリカ行った時のことをまた思い出した。ちゃまさんもお友達も、スマホがあればどこでも行けると言い、さらには別の州にも行けるとか、カナダまで行けるとか言い出したが、俺にはそんな行動力はないし、そもそも旅行の目的が違うので何とも言えなかった。
 欧米は禁煙法の先進国だが、シアトル近郊の路上は吸い殻だらけだった。屋内から喫煙を追い出した結果、路上喫煙が当たり前になったのだろう。日本もこれからそうなるだろう。今日付けで新しい健康増進法が施行されたことだし。上っ面だけ変に生真面目だから、路上喫煙を注意して殴り合いに発展したりするんだろうな。馬鹿らしい。俺は働いてないから自宅で吸えばあとはなんとかがまんできるだろう。飲食店がすべて禁煙になって、酒を飲みながら一服したりすることができなくなってしまうが、飲食店にいる間ぐらいがまんできる。一人では飲食店も滅多に行かなくなってしまったしな。
 タバコはやめたいと思ってる。体に悪いからではなくて金がかかるから。普段は粗食だから、食費よりタバコ代のほうが高いのではないだろうか。しかしやめられない。売っているからだ。健康増進法とか言ってないでタバコの製造販売を止めてくれればいいのに。なければがまんできる。

 働く喫煙者はかわいそうだ。俺の偏見かもしれないが、労働に関しては非喫煙者より喫煙者のほうが有能だ。俺がそうだったように。そしてできればタバコを吸いながら仕事ができると最大のパフォーマンスを発揮する。昔はみんなそうだった。
 働いてた頃、喫煙時間が長いとかいう下らない注意を受けたことを思い出してまたむかついた。いくら喫煙しようが俺が他人の倍以上の成果を上げていたことは明らかなのに。そして口うるさい非喫煙者どもはといえば、わざと仕事を遅らせて残業代を稼いでやがった。そんな奴らに注意されるいわれはない。俺は定時で馬鹿どもの倍以上働いてさっさと帰っていたので収入は一番少なかっただろう。時給制だから。
 データ入力の仕事だから成果は文字通り目に見えたが、まったく評価されなかった。会社にいる時間の長さだけが評価されるのだ。クソみたいな仕事だった。どうせ俺みたいな人間にとってはあらゆる仕事がクソなんだろうけど。

 15時になった。
 なんとなく熱っぽいので体温を測ってみた。36.0だった。体温計がおかしいのか俺の体温が低いのか知らないが、平熱は35度台だから、微熱があるのだろうか。少し咳が出たのでコロナかなと思った。明日になればわかる。ただのカゼだったら一晩で治る。悪化したらコロナかもしれない。だとしてもつらくなるまで病院には行かないし、行くとしても普通に内科行ってカゼっぽいと言うしかない。コロナっぽい症状があっても検査はしてもらえないのだから。
 デマに惑わされず正しい情報を、と厚労省が呼びかけているが、厚労省ほど信用できない情報源が他にあるだろうか。大嘘つきの厚労省厚労省にかぎらず、国も自治体もすべて信用できないけどな。信じられるのは自分と仲間だけだ。

 昼飯を食った。玄米と納豆。近頃はそればっかりだ。それが一番安いし簡単だしうまいから。そして食ったら昼寝するのが習慣みたいになってしまった。寝るか。

 17時過ぎに起きた。カゼっぽいのはもう治った。体温は変わらず36.0だったけど。どうも安物の体温計だしいまいち信頼性がない。俺の平熱が35度台というのもおかしい。精神科隔離病棟に監禁されていたとき毎朝検温したが、平熱は36度台だったのだ。平熱がそんなに急に変わるだろうか。測り方による誤差の範囲かもしれない。
 昼飯のときに二食分炊いておいたので夕飯を食った。また玄米と納豆だ。食後の一服をして、夕食後の薬を飲んだかどうかわからなくなってしまった。飲まないことにした。一回ぐらい飲み忘れても問題ない。飲みすぎのほうが問題あるだろう。
 精神科の処方箋薬とももう長い付き合いだな。記録によれば初診日は2012年10月20日だから、丸7年を過ぎて8年目になるのか。もうすっかり身体依存しているだろうけど、やめないのだから関係ない。抗鬱剤は徐々に量を増やして今では処方可能な最大量を飲んでいる。その上コーヒーを飲んでカフェインをドーピングしないとやってられない。これは病状の問題ではなく環境の問題だと思う。こんな世の中で少しも鬱にならない人間は逆にどこかおかしいのではないか。
 アメリカで聞いた話だが、向精神薬を俺ぐらい飲んでいると、各種ドラッグが効かなくなるらしい。それも特に問題ない。WEEDはちゃんと効いたから。ケミカルにはあまり興味がないし、きのこは大量に食えばいいのだ。まあそんな機会ももうないかもしれないが。

 タイ行きはもうすっかり諦めた。飲んでる薬の中に、最大29日分しか処方できない薬がある。それを無視して通院頻度を減らすにしても限度があるだろう。数ヶ月に一度は飛行機に乗って通院しなければならないのだ。そんなこと俺には無理だ。今の家から家賃のより安い公営住宅に引っ越す必要もあるし、引っ越しももう二度とご免だ。それに、タイにそれほど興味がないこともわかった。下見旅行さえ面倒で嫌なのだ。俺は海外旅行に向いてないという結論に達した。
 アンチさんがアメリカ移住して招待してくれれば行くよ。そしてそれが人生最後の海外旅行になるかもしれない。

 さてまた少し寝ようかな。18時36分。
 19時28分に起きた。
 CGつくった。
 20時32分。腹がへったらうどんでも食おうと思っていたけど、へらないようなのでもう歯をみがいた。

 CGといえば、オンライン販売からは撤退したよ。fine art americaもTシャツトリニティもアカウントを閉じた。今後Standa1oneは、表向きは作品を売らないアーティストとしてやっていく。でもコピーならいくらでも売る。権利は売らない。つまり、個人的に要望があれば印刷物は低価格で販売するけど、同じ作品のコピーを売り続ける権利は保持する。デジタルのオリジナルって何なんだという疑問があったが、オリジナルなんてないんだ。コピーを売る権利がオリジナルに相当するものだと考えた。そしてその権利は決して売らない。デジタルデータなので売るのは印刷物に限る。データは売らない。
 アンチさんとローガンが買ってくれた1点のみが例外。あれだけは方針転換前なのでコピーも売らない。
 ペロツンがプリントを欲しがってくれてたけど、この販売形態ならばA4サイズは1枚2千円ぐらいでいい。印刷のコストや手間を考えても2千円で売れば利益があるだろう。A2サイズは印刷屋さんに発注するのでもっと高くなるけど。
 作品を売るのではなくコピーである印刷物を売る。それならば廉価でいくらでも売っていい。広まれば広まるほどいい。コピーのコピーをばら撒いてくれても結構だ。
 アートと資本主義経済は根本的に相反する。アートで商売してはいけないのだと思うし、その商売は成り立たない。アートで飯食ってる奴もいるけど、マーケティングがうまいだけで、それはもはやアートではないような気がする。資本主義の下ではアーティストは食えないものだ。
 商売として成功してる奴はだいたいおもしろくないし、アートについて真剣に考えてないと思う。アートって何なんだという根本的な問いを突き詰めて考えれば、それは決して大金をもたらすものではない。

 21時50分。
 最近、金について頻繁に考える。金を稼ぐことはとっくに諦めている。そして俺の場合、金を残しておいて意味があるだろうか。いつ金の価値がなくなるかわからないし、資本主義がもう少し生き続けると仮定しても、どうせ生活保護に頼るしかないなら、金を隠し持っているのはリスクでしかないのだ。いろいろ面倒なのでなくなったことにしていたが、実は母親の遺産はなくなっていない。まだ少しあるのだ。これをケチっても意味がないような気がしてきた。
 しかし、何事か始められるほどの額があるわけではないし、俺には有意義な使い道などない。結局節約生活に努めて生活保護をできる限り遠ざけるしかないのだろうか。アメリカシアトル旅行の費用もここから出した。そして将来アンチさんを訪ねて再びアメリカへ行くときにも同様だろう。それ以外に使い道を思いつかない。せいぜい生活保護前にPCを買い替えるとか、音楽CDを買うとか、それぐらいだ。
 障害年金の口座と遺産とは分けてあり、障害年金を生活費に、遺産を遊びに使っている。だが俺の遊びなんてたかが知れてる。社会の大半に興味がないのだから。その上めんどくさがりで出不精だ。
 もしもWEEDが合法化あるいは非犯罪化されれば大量に買うだろう。毎日吸い放題吸ってれば金はすぐになくなる。そしてそれは俺にとって非常に有意義な使い道だ。だがそれはおそらく叶わぬ夢だろう。日本は永遠に解禁しないような気がする。

 もう一つ考えているのが生きる理由だ。今のところまだ死にたくないと思っている。それはなぜなのか。生きて何をしたいのか。死にたくない理由がわかれば、それが最優先でやるべきことであるはずだ。それが何かわかれば、途端に人生が充実する。しかしこれがやっかいな疑問で、いくら考えても一向にわからない。生物だから死にたくないだけなのだろうか。
 CGはライフワークと位置づけてはいるけど、例えば大地震とかで作る手段を失うというような可能性が考えられるが、そうなってもそれほど気にならないと思う。できないならできないで他のことをするまでだ。つまりCGだけでは満足していないということになる。
 死ぬときになって気がついて、あれをやればよかったと後悔するのは嫌なのだ。だから毎日考えてる。死にたくないのはなぜなのか。何が未練なのか。

 友達がいるからという理由ももちろん入っているよ。

 23時になった。エイプリルフール終了まであと1時間。
 CGつくる以外にとくにやることなかったので、今日はずっとこれを書いていた。冗長でごめんね。そろそろ終わりにする。

 9時まで寝てたし昼寝もしたから今日はまだ眠くない。0時までは音楽聴いてて日付変わったら少しだけツイッターに登場するかな。

mi

自然死

 今日は追加購入した玄米の配達があるのだけど、朝一本目のタバコを吸っているときこんな空想が勝手に湧いた。
『ちょうど配達の時間にピンポン鳴ってドアを開けたら配達ではなくスーツ姿の若い男が立っていて、そいつは不動産営業で、撃退するのに手間取っているところへ待っていた配達がやってくる。配達の人は重い玄米を持っている。配達を先に済ますべきところだがしつこい営業野郎が譲ろうとしない。腹を立てた配達の人が営業野郎に荷物を投げつける。営業野郎は荷物の下敷きになって意識を失う。それをほっといて俺は受領印を押して配達の人は立ち去る。荷物を部屋に運び入れるが、ドア前に営業野郎が倒れている。通報しないと俺がなんらかの罪に問われてしまうので仕方なく警察を呼ぶ。やってきた警官に事情を説明するが、このままでは配達の人が暴行の罪に問われてしまうことになり、それは理不尽だと思った。営業野郎が先に暴力を振るっていれば配達の人は正当防衛だと思い、口論になり営業野郎が先に殴ったということにシナリオが変わる。配達の人はなんら悪くない、悪いのはこいつのほうです、こいつが先に手を出しました、俺が証言しますと警官に話す。それでも配達の人は過剰防衛の罪に問われるかもしれない。かわいそうでならない。』

 そんな事態を招きかねないアポなし訪問はやはり犯罪だ。現行法に照らしても不法侵入、不退去罪。
 正当防衛というのはすんなり納得できる概念だけど、過剰防衛というのはまったく納得いかない。身の危険を感じて必死で抵抗するときに手加減などできるか。
 そんな空想から一日が始まった。
 今日もごみを出し忘れた。少し溜まってきてしまった。

 習慣的にヤフーニュースを見たがほとんどがコロナ。実態は厳しく隠蔽されているので報道を見てもあまり意味がない。
 コロナを恐れすぎだと感じる。治療薬がないから警戒してるんだろうけど、どうも死病というよりは単に肺炎を引き起こしてるだけのように思える。感染者数も死者数も隠されてる(わざと把握してない)からわからないけど、感染しても回復してる人もいる。主に老齢で体力のない人が死んでる。日本の数字はまったくあてにならないけど、世界的に見て感染者数のわりに死者数は少ないように感じられる。
 俺はできるだけの注意はするけど、感染したらしょうがないと思ってる。感染が疑われても検査はしてもらえないから、カゼのように内科受診するしかない。肺炎になっても、検査しないのだから通常の肺炎として治療を受けるだけ。それで治りそうな気もするし、最悪の場合死ぬだけだ。

 死を恐れすぎなんだな。皆必ず死ぬのに、死から目を背けて現実逃避している。だから少しでも危険があると狂ったように大騒ぎする。日ごろから死について考えていれば、今回の疫病は報じられているほど危険には見えない。とくに高齢者なんか、あと何年か何十年か長く生きたところで何になる。いい年してまだ死を恐れるか。すこしは頭を使え。

 俺が死を意識し始めたのは、四歳のときに祖父が死んだころかな。家族が嫌いだったから家を出たかったけど、各種児童救済機関があることなど知らなかったから、家出したら死ぬんだなと思ってた。
 実際には現代人はなかなか死なない。
 六十、七十、八十まで生きてなお死を恐れるということは、真剣に生きてこなかったということだと思う。真剣に生きていれば誰でも死を望むようなことがいくらでもあるのではないか。生きてることが奇跡だと思っておいたほうがいい。

 年間数万人(それも公表数。実際はもっと多いはず)の若者が自殺する国で、高齢者がコロナに怯えているさまは滑稽ですらある。
 老害という言葉で高齢者をひとくくりにしてしまうのはいささか乱暴ではあるけど、実際に大勢の高齢者が害をなしているので老害と言われても仕方ないだろう。老害ではない高齢者は、自分は違うと思うだけだろう。それどころか同年代として恥ずかしい、若者に対して申し訳ないという気持ちを抱いてもおかしくない。老害と言われて腹を立てる奴は高確率で老害だと思う。

 近年、高齢者の傍若無人ぶりを見ていると、日本人から地獄極楽信仰を奪ってしまったのは間違いだったように思える。日本を破壊するための謀略ならば見事に成功したと言える。
 俺の祖母は、実際には国粋主義者レイシストで無知蒙昧で猫嫌いのとんでもない奴だったけど、地獄極楽を信じていたので、毎朝仏壇に向かって念仏を唱えるなどして、自分なりに善良であろうと努力はしていた。きっと極楽に行けると信じて死んだのだろう。
 地獄行きの恐怖が高齢者のモラルをかろうじて保っていたように思う。それがなくなり、死ねばそれまでと思うようになった途端、自分さえよければいい、やったもん勝ちという態度になった。

 そんな見方だし、自分の祖母が大嫌いだったし、情報でも実体験でも高齢者の極悪非道ぶりが目立つし、人数が多すぎて大問題だし、この際大勢死んでくれないかなと思ってしまう。もちろん高齢者を一律に老害と見なすのは不正確だけど、感情的には減ってもらいたいとしか思えない。

 今日は3月11日。俺はすっかり忘れていたけど、震災の日だとツイッターを見て気づかされた。あの時は地震津波で数万人が死んだが、俺のような人間は素直に心を痛めることができない。人間というものについてよく考えると、自然災害で死ぬのは当然の報いのような気がしてしまう。自然のやることは気長で大まかなので殺す人間を選別してはくれないから、当然の報いは言い過ぎだとしても、自然の摂理だとは言える。どんな災害も疫病も、主に高齢者が多く犠牲になる。それは自然なことだ。

 あらゆる問題の根底に人口過剰があることを早く直視してもらいたいものだが、実際には少子化が問題だとかぬかしてなぜ子供を産まないのかと若い世代を責める。人口に多くの比率を占める高齢者の大部分が老害だとすれば、早く死んでほしいというのが俺の偽らざる心境だ。
 老人が多くても、邪魔しないでくれればそれでいいのに。老人の多くは若者を嫌っているが、若者の多くはお年寄りを敬う心を持っている。そのアンバランスもやるせない。

 俺も六十代七十代まで生きていたら老害扱いされるようになるんだろうな。

mi

久しぶり

 ツイッターでは毎日たくさんツイートしているけど、すべて断片的でなかなかまとまらない。要約するのはうまくなったが長文を展開するのは苦手になってしまった。そのためなかなか日記が書けない。前回から一か月以上経過してしまった。
 ツイートと重複する部分もあるがちょっとまとめてみた。

 今朝は寝起きから気分が悪かった。二日連続で安い鶏肉を食ったせいかもしれない。嗜好品でさえ変性意識状態をもたらすのだから、食べるものの影響は大きいに決まっている。ブロイラーチキンの発想とでも言えそうな否定的、悲観的で絶望的な考えばかりが湧きおこる。
 知能が発達し意識を持つに至ったのは果たして本当に進化と言えるだろうか。そのせいで数限りない悲劇が繰り返されている。進化というよりただの不運な奇形ではないだろうか。生命の誕生そのものが超超超不運な悲劇の始まり。
 人間はみんな自信過剰だ。どんな思想も信条も、思考の断片も、わけがわからず気が狂って苦しみのたうちまわっているうちにやけくそで無理やりひねり出したものに過ぎない。そんな人間が人間を裁く。なんたるディストピアか。

 なにが「青少年の健全な育成」だ。人間がどのように育つかなんて誰にもわからないし、「健全」ってなんだよ。社会の部品としてぴたりとハマることでしかない。「青少年の健全な育成」とは「従順で役に立つ奴隷の育成」でしかない。意図的なのかわかってないのか知らないが。教育なんて実質は洗脳だ。ただ単に目的によって教育と言ったり洗脳と言ったりする。表現が違うだけで実質は同じだ。
 教育者というものが大嫌いだ。自分には人を教え導くことができると思っているなんてなんたる思い上がりか。またそれをしたがる奴のどす黒い欲望。支配と洗脳。独裁者になりたがるのと似ている。
 学校は大嫌いだったし、「先生」というものはすべて殴り殺したくなるような奴ばかりだった。愛情押し売りタイプもいれば独裁者タイプもいるが、共通しているのは自分の欲望を実現するためにやっているだけだということ。「先生」になりたがる時点で人格に問題がある。不祥事が続出するのも当然だ。学校なんていらない。学びたければ個人が独学すればよいし、教えてもらうより独学したほうが知識も考え方も身につく。
 義務教育がなければ無知で馬鹿になるかといえばそんなことはない。人間は全員無知で馬鹿なのだ。しかし必死で学ぼうとする人はいる。義務教育なしで馬鹿になる人間は、義務教育があっても馬鹿だろう。義務教育は馬鹿に知識という危険なおもちゃを持たせてしまう。自ら学ぼうとしない者は学ばないほうがよいのだ。

 すべては劣化していくものか。少なくとも生命はそうだな。徐々に劣化し老いて死ぬのだ。あらゆる天体が死に向かっているのだから、その表面に寄生している生命も同様だろう。

 俺の言うことなんて当てにならない。一時間眠っただけで考えが変わるかもしれない。だがそれで当然だ。全ては変化するということだけが、人間が知りえたこの世の事実だ。他のことは全て憶測でしかない。

 全ては変化するということが事実なら、全ては変化するという事実も変化しているはずだ。すなわち、変化が進行したり止まったりしているのだろう。変化が止まることなどないように思えるのも当然。変化しないということは何も動かない、何も働かないのだから、止まっていることを認識することもできない。人間が一瞬と感じている時間の間にも数億年数十億年の無変化期間があっておかしくない。変化が止まれば何も変わらないのだから、天体も運行しないし生命も老いない。再び動き出したときに無変化期間を認識することができないのは当然だ。
 そんなこと考えても無意味に思えるかもしれないが、俺はこの世の事実よりも重要なことなんて何もないと思ってる。

 ツイッターは文字数が限られるので、詳しい説明はできない。抽出したエキスのような濃厚でわかりにくいツイートになる。わからない人はわからなくていい。俺は俺のためにツイートしているのだ。斬り捨て御免。
 それにツイッターで渾身のツイートをしても、大抵は誰にも届かずに流れ去る。

 交換日記が一ヶ月以上止まっているしツイッターに倦んだので書いてみた。暗澹たる思い。あまり気にしないでもらっていい。俺なんてちょっと寝れば気分がよくなる。

mi

自然のままに

 風呂屋を語るかと思いきや心変わりして環境問題を語る。
 俺は環境問題をあまり問題視してない。人間は自然から生まれて自然に還る。人間だって自然なのだ。自然から生まれた自然である人間が作り出した人工物だって自然の一部だ。人間だけを特別視して、人間のエゴが環境を破壊していると言われるが、エゴだって自然だし、エゴのせいで人間が滅びるならそれもまた自然だ。地球全体を巻き添えにして惑星一個死んだとしても、それも自然現象なのだ。
 ナチュラリストのおかしなところは、人間による環境破壊を問題にしながら、人間が変わりなくより幸福に生きられることを望んでいるという点だ。ナチュラリストの言う「自然環境」が本当に大事ならば、このまま人間が絶滅すればよい。すべての問題が解決する。
 環境を破壊するのはなにも人間に限ったことではなく、自然現象で環境が破壊されることだってある。人間は愚かだと言われるが、ほかの動物と比べて特別愚かだとは思わない。動物と同じだ。問題は人間が愚かなことではなく、数が多すぎるという一点に尽きる。
 また環境破壊というものの認識も間違っている。人間が言う環境とは、人間が生きていける環境のことでしかない。そんなものはぶっ壊れても自然にとっては些細なことだ。宇宙には生物が存在できない星のほうが圧倒的に多いのだ。
 人間が変わらずに生存するためには個体数を激減させる必要がある。減らさない、さらには増え続けるとなると、よほど大きな進歩がない限り絶滅は避けられないだろう。
 そして、仮に人間が絶滅したとして、それが何だというのか。人間だけでなく地球全体を巻き添えにして一つの星が死んだとしても、自然にとっては取るに足りない些末なことだ。自然とは宇宙のすべてであり、地球一個なくなったとして宇宙にどれほどの影響があるというのか。
 地球の自然環境を守るという視点から見れば、人間さえいなければすべてがうまくいく。また、人口が少なければ人間がやりたい放題やっても環境を破壊することなどできない。自然環境は自然に回復する。
 問題を問題と認識しているのも人間なので、人間がいなくなれば問題もなくなる。
 ナチュラリストの多くは人間のエゴを批判するが、人間を進歩させたのもエゴだ。エゴがなければ確かに問題は起こらないが、人間ではなくなり猿人あるいは類人猿まで退化することになる。極端なナチュラリストはそれを望んでいるのかもしれないけど。
 何のことはない。自然環境を守れと言うのは、「私が快適に生きていける環境を守れ」と言っているにすぎない。
 本当に自然環境を守りたければ、死んで自然に還ればいいのだ。

 思い浮かぶままに書いた。乱文失礼。

おなかがすいたよ午前2時10分前くらい

おつかれちゃんです。

 

Twitterみてたらなんかイライラしてきたのでパソコンも電源落として(仕事以外でも使ってるなんて頭おかしい)、スマホからもTwitter開かないようにして、はてなブログのアプリまたダウンロードして、書いています。

 

夫は料理中。なんか鬱の予感がしているそうで、引っ張られないよう気をつけているみたい。冬だしね。

 

お2人も寒いけどなんとか生き延びようね。

 

もうすぐごはん食べれる。

ものっすごい空腹。叫びたいくらい。

 

そういえば年が明けたね。おめでとうございます。去年よりは良い年になりますように。

初詣で200円お賽銭投げてきたから、我々みんな大丈夫だよ。

 

みんななんとかなる

 

では食事にしますね。

 

anti

おはよー

ここもなんか久しぶりになってしまった(涙)

お2人ともお元気ですか、っつってもそれぞれ個人的に話したりするので白々しいかしら、でも、お元気ですか。

 

今7:51なんだが、5時から仕事しとる。2時半くらいに寝て、起きた。10時まで寝れない。なにやってんだろってちょっと思う。

まあ仕事っつってもほぼやることないし、せっかく起きてるんだから他の仕事の続きやればって思うけど、思わない。思えない。そんなにがんばれない。

 

しかも今諸事情でパソコンの時刻を某国に変えててもうすぐ夜中なんだよね。朝なのにさ。もうよくわかんないよ。どうでもいい話で本当にごめんなさい。

 

まあとにかく、あとで遊ぶために今働こうみたいな感じで生きています。でもこんなのおれじゃないみたいな気もします。

 

今はスモークサーモンが食べたい。

 

anti